2013年9月16日月曜日

ゼロ・ダーク・サーティ

 
9.11の悲劇を受けて,当時のブッシュ大統領は「これはアルカイダとの戦争だ」と宣言した。同時多発テロを凶悪な犯罪として扱い,その主犯をオサマ・ビン・ラディンと定めたら,アメリカはビン・ラディンを逮捕すれば勝ちということになる。
 しかし,この事件を犯罪でなく戦争にしてしまったら,ビン・ラディンを逮捕せずに殺す可能性もあるという口実は得られるものの,彼を殺しただけでは事件は終わらなくなってしまう。アルカイダが全滅するまで(降伏はしないだろうから),戦争は終わらないのである。

 事実,オバマ政権になってついにビン・ラディン殺害に成功しても,テロの脅威が去ったわけではないことは誰の目にも明らかで,不意打ちで人を殺したという後味の悪さが強調される結果になってしまった。政治的には,アメリカはアルカイダに敗北しているのだ。


 この映画の主人公マヤは,CIAに入った時から,容疑者を尋問してビン・ラディンを追うことしか学んでこなかった。拷問を見てすくんだり,先輩の口ぶりをそっくり真似て尋問したりしながらだんだんと強くなっていき,自らも非情な拷問を駆使するようになる。そして,ついには先輩が「こんな仕事はもう御免だ」と配置転換を求めても,尋問の現場から離れようとしなくなる。

 ここで,映画を観ている者はマヤが一人前の頼れる職員に成長した,と感じることはできない。冒頭から,苦しそうで,汚い拷問を立て続けに見せられているから,観客が共感できるのは仕事を嫌がる先輩職員の方だ。マヤは,仕事を中途で投げ出すことができず,他にできる仕事もない不器用な職員にしか見えない。

 その後も,観客がマヤに共感できる機会は少ない。彼女の心に私が寄り添うことができたのは,親しい同僚が爆弾で殺された時くらいだろうか。「今はビン・ラディンを追ってる場合じゃない。テロを未然に防ぐ方が先だ」とマヤを叱りつける上司の言うことは,間違っているとは思えない。テロリストに襲撃されて,前線から退いたマヤがやっていたことは,決定的な証拠を示すことができないのに早くビン・ラディンを殺しに行けと上司をせっつく,まるで嫌がらせである。友だちを殺されて,ビン・ラディン憎しの気持ちはわかるけど,個人的な恨みで軍隊まで動員できる道理はないだろう?あんたは今,安全な所にいるんだよ?そこにビン・ラディンがいるという読みが間違っていたらどうするつもり?

 読みが当たっていたから映画にまでなったが,違っていたら彼女はどうなっていたのだろうか?
 そんなマヤの主張を入れて作戦にゴーサインを出した(大統領に出させた)CIA長官も,その度量の大きさは男らしいが,兵士を危険にさらし,パキスタンとの国交にも支障が出るような決断をするには証拠がなさすぎないか?現実には,もっとしっかりした証拠をつかんでいたのかもしれないが,映画の中ではかなり無理がある決定だ。

 どうもマヤは,職場をひっかき回して同僚を困らせる「厄介な女」に見えてしかたがない。だから,最後の彼女の涙もどう解釈したものかわからないまま映画はぷっつり終わる。彼女の気持ちを観客に伝えたいなら,後半のシールズ突入の場面では,シールズの活動でなく,その報告を緊張して見守るマヤにもっと時間を割くべきだったろう。そうしないのは,監督のキャスリン・ビグローの興味がそもそもマヤになかったのか?あるいは,実在の人物をドラマティックに脚色することが難しかったのか?とにかく,最後まで主人公に共感することは難しかった。


 では,「ゼロ・ダーク・サーティ」はつまらない映画だったのか?

 いやいやどうして。容疑者の尋問,突然襲ってくる爆弾テロ,ビン・ラディンの隠れ家への突入など,緊迫感にあふれて退屈などまったくしなかった。爆発の重い音,拳銃の乾いた音,ステルスヘリやシールズが持つライフルの不気味なほどの静けさ・・・音が効果的だ。CIAの工作員やシールズの隊員は,無茶な作戦に愚痴もこぼさず,まことに男らしい。男の監督なら,男の弱さをもう少し出すところだろうか?ビグローが描く男たちは,実に清々しく,頼もしく,セクシーだ。
 この映画に,ビン・ラディンを追う人の心の闇とか,政治的な意味などを求めると,中途半端な出来で失望しそうだ。そうではなく,マヤという暴走する女を狂言回しにしたサスペンス映画,アクション映画とみると無類におもしろい。そんな映画だった。

 余談だが,「マン・オブ・スティール」での,カル・エルとゾッド将軍との戦いはビルを倒壊させ,9.11を彷彿とさせた。事件の直後はあのスパイダーマンでさえ公開を自粛したほどだったのが,ずいぶん立ち直ったものだ。この立ち直りが,ビン・ラディン殺害によってもたらされたのだとすれば,あれも意味があったと言えるのだろうが・・・。

2013年9月9日月曜日

MAN OF STEEL を観て思ったこと

 スーパーマンは,アメリカが生んだ,全宇宙でも稀有な,フレンドリーな神である。

 神とは本来,人間が畏れ,ひれ伏す存在である。人間が神を敬うことを忘れると,容赦なく天災でもって罰を下す。敬っていても,人間に積極的に優しくしてくれることはない。敬虔な信者であっても,事故で無残に死んでしまうし,悪魔は勤勉に人間に憑りつくのに,神はめったに助けに来てくれない。神は神の意志で行動するのであって,人間の心情や法では動かないのである。

 スーパーマンは違う。神のごとくほとんど全能でありながら,困っている人がいればすぐに駆け付け,お礼を言えば,「自分の務めだから」「友達だから」と微笑んでくれる。フレンドリーな神なのだ。そして,その行動規範は人間が作った法である。どんな悪人も決して殺さず,刑務所に送るのだ。強大な力をもっていながら人間の上に君臨することはなく,(アメリカの)法の下に市井の人々と肩を並べながら,彼らを正しく導く。

 アメリカ人の誰もがなりたいと思う,理想のアメリカ人。


 東日本大震災の直後,津波で押し寄せた海水に周囲を囲まれて孤立してしまった人々に,空からヘリコプターで降り立って食料を提供してくれたアメリカ兵たち。突然のことであっけにとられる人々を尻目に,忙しそうに飛び去った彼らこそ,スーパーマンの精神を体現した人々だ。しかも,作戦名は「オペレーション・トモダチ」。マントを羽織って空を飛ぶ男など現実にいるはずもないが,その精神はアメリカ人の心の中に確かに存在しているのだ。


 どこまでも揺るぎなく,正しい人。


 それがスーパーマンだ。善悪の判断基準がスーパーマンの中にあってはいけない。全人類を滅ぼすこともできる力をもっているのだ。彼の心が揺らぐことは大惨事につながるだろう。では,何を基準にするのか?「(アメリカの)正義と真実」である。スーパーマンが己の心情を行動原理にするなら,人々は古来の神を恐れるように,スーパーマンの機嫌をうかがいながら生活しなければならない。そんな存在を,ヒーローと呼ぶだろうか?


 「MAN OF STEEL」で気になったのは,スーパーマンことカル・エルの「人間は信用できるのか?」という問いである。こんな疑問を抱きながら高速で空を飛ばれたら,たまったものではない。人間の出方次第では,彼は「巨神兵」にもなり得るではないか。

 クリストファー・リーヴが演じたスーパーマンは,初めての飛翔の前に,10年以上も父ジョー・エルと共に思索の旅をした。飛び立つ前に,完璧なスーパーマンになっていたのである。そうでなければ,危険ではないか。それでも,映画の終盤ではロイス・レインを死なせてしまった悲しみに我を忘れて,地球を逆回転させるという愚行を犯してしまった。危険だ。だから,「2」では人間らしい恋愛をしたいなどという甘い心を克服するストーリーが必要だったのだ。

 スーパーマンは荒ぶる神ではない。私たちの隣で微笑む神である。


 「MAN OF STEEL」では,カル・エルにゾッド将軍の首を折って殺させるという,まさに愚行をさせてしまった。罪の意識の重さに絶叫する超人など,危なくて誰も近寄れないではないか。せっかく助けてもらったお父さんも,怖くて声を掛けられないだろう。

 そして終盤,カル・エルは自分を監視する飛行機を墜落させ,俺にかまうなと言う。これは誰が見ても脅しだ。こんな態度をとる男は,もはやスーパーマンと呼ぶべきではない。だからタイトルが「MAN OF STEEL」ではないかなどと言うのなら,胸のマークを,赤いケープを外してもらいたい。本当のスーパーマンは,みんなの心の中に生きている,正義と真実の人なのだ。

 スーパーヒーローをリアルに描いたなどと得意になってはいけない。だいたい,空を高速で飛んだ時点でファンタジーなのだ。人間並みに悩んだからリアルというわけではなかろう。

 自分が不死身の超人だと気付いて戸惑い,悩む男は,すでにシャマランが「アンブレイカブル」で描いている。暗く,陰鬱な映画だ。もちろん,主人公はスーパーマンではなく,荒ぶる神でもない。最初から最後まで人間である。リアルにしたいなら,こうするべきではないか?


 もう一度言う。本当のスーパーマンは,みんなの心の中に生きている,正義と真実の人なのだ。「MAN OF STEEL」は,そこが違うと思うのだ。
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