2013年9月9日月曜日

MAN OF STEEL を観て思ったこと

 スーパーマンは,アメリカが生んだ,全宇宙でも稀有な,フレンドリーな神である。

 神とは本来,人間が畏れ,ひれ伏す存在である。人間が神を敬うことを忘れると,容赦なく天災でもって罰を下す。敬っていても,人間に積極的に優しくしてくれることはない。敬虔な信者であっても,事故で無残に死んでしまうし,悪魔は勤勉に人間に憑りつくのに,神はめったに助けに来てくれない。神は神の意志で行動するのであって,人間の心情や法では動かないのである。

 スーパーマンは違う。神のごとくほとんど全能でありながら,困っている人がいればすぐに駆け付け,お礼を言えば,「自分の務めだから」「友達だから」と微笑んでくれる。フレンドリーな神なのだ。そして,その行動規範は人間が作った法である。どんな悪人も決して殺さず,刑務所に送るのだ。強大な力をもっていながら人間の上に君臨することはなく,(アメリカの)法の下に市井の人々と肩を並べながら,彼らを正しく導く。

 アメリカ人の誰もがなりたいと思う,理想のアメリカ人。


 東日本大震災の直後,津波で押し寄せた海水に周囲を囲まれて孤立してしまった人々に,空からヘリコプターで降り立って食料を提供してくれたアメリカ兵たち。突然のことであっけにとられる人々を尻目に,忙しそうに飛び去った彼らこそ,スーパーマンの精神を体現した人々だ。しかも,作戦名は「オペレーション・トモダチ」。マントを羽織って空を飛ぶ男など現実にいるはずもないが,その精神はアメリカ人の心の中に確かに存在しているのだ。


 どこまでも揺るぎなく,正しい人。


 それがスーパーマンだ。善悪の判断基準がスーパーマンの中にあってはいけない。全人類を滅ぼすこともできる力をもっているのだ。彼の心が揺らぐことは大惨事につながるだろう。では,何を基準にするのか?「(アメリカの)正義と真実」である。スーパーマンが己の心情を行動原理にするなら,人々は古来の神を恐れるように,スーパーマンの機嫌をうかがいながら生活しなければならない。そんな存在を,ヒーローと呼ぶだろうか?


 「MAN OF STEEL」で気になったのは,スーパーマンことカル・エルの「人間は信用できるのか?」という問いである。こんな疑問を抱きながら高速で空を飛ばれたら,たまったものではない。人間の出方次第では,彼は「巨神兵」にもなり得るではないか。

 クリストファー・リーヴが演じたスーパーマンは,初めての飛翔の前に,10年以上も父ジョー・エルと共に思索の旅をした。飛び立つ前に,完璧なスーパーマンになっていたのである。そうでなければ,危険ではないか。それでも,映画の終盤ではロイス・レインを死なせてしまった悲しみに我を忘れて,地球を逆回転させるという愚行を犯してしまった。危険だ。だから,「2」では人間らしい恋愛をしたいなどという甘い心を克服するストーリーが必要だったのだ。

 スーパーマンは荒ぶる神ではない。私たちの隣で微笑む神である。


 「MAN OF STEEL」では,カル・エルにゾッド将軍の首を折って殺させるという,まさに愚行をさせてしまった。罪の意識の重さに絶叫する超人など,危なくて誰も近寄れないではないか。せっかく助けてもらったお父さんも,怖くて声を掛けられないだろう。

 そして終盤,カル・エルは自分を監視する飛行機を墜落させ,俺にかまうなと言う。これは誰が見ても脅しだ。こんな態度をとる男は,もはやスーパーマンと呼ぶべきではない。だからタイトルが「MAN OF STEEL」ではないかなどと言うのなら,胸のマークを,赤いケープを外してもらいたい。本当のスーパーマンは,みんなの心の中に生きている,正義と真実の人なのだ。

 スーパーヒーローをリアルに描いたなどと得意になってはいけない。だいたい,空を高速で飛んだ時点でファンタジーなのだ。人間並みに悩んだからリアルというわけではなかろう。

 自分が不死身の超人だと気付いて戸惑い,悩む男は,すでにシャマランが「アンブレイカブル」で描いている。暗く,陰鬱な映画だ。もちろん,主人公はスーパーマンではなく,荒ぶる神でもない。最初から最後まで人間である。リアルにしたいなら,こうするべきではないか?


 もう一度言う。本当のスーパーマンは,みんなの心の中に生きている,正義と真実の人なのだ。「MAN OF STEEL」は,そこが違うと思うのだ。
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