私の妻は脳に障害があるため,自分の体調を自分で正しく把握することができません。
「ちょっと痛い」とだけ言っていたのが,命を懸けた手術に発展してしまったこともあります。
そこで,私は妻の体調が少しでもおかしいと感じたら,ためらわず病院に連れていくことにしています。
2011年1月のある日
妻の生理が安定しないので,産婦人科の病院に連れていきました。
よくある生理不順だと思ったのですが,大丈夫という言葉をお医者さんから聞きたかったのです。
大きな病院なので人も多く,検査の結果を聞くまでに長く待ちました。
「出血は少ないようですが,生理がないわけではないし,大丈夫ですよ」
いかにも大したことはないという感じで,お医者さんはてきぱきと話を進めました。
「ああ,それから,念のために子宮頸がんの検査もしましたが,これも大丈夫・・・ではないですね」
私は息をのみました。
「子宮頸がんがありますね・・・まだ初期のはずですが,どの程度進行しているのか,もう一度検査をさせてください」
再検査を受け,検査結果を聞く日を予約してから,私たちは車に乗りました。
車のエンジンをかけ,走り出そうとしましたが,私は泣くのを我慢できませんでした。
俺は嫁の命を守るためにずっと頑張ってきたぞ!
まだ頑張りが足りないのか?!
「まだ初期だって言ってたじゃない。きっと大丈夫だよ」
がんを患った本人の方が落ち着いて自分の運命を受け入れていました。
励ますべき相手に,逆に励まされてしまいました。
次の週,検査の結果を聞きました。
「初期の子宮頸がんです。ごく簡単な手術で取れます。ただし,がんを発生させたウィルスは,薬では死滅しない種類のものでした。必ず再発するので,将来も検査は欠かせません。でも,子宮頸がんは進行に長い時間がかかるので,定期的に検査をしていれば,心配することはありませんよ」
丁寧な説明の後,妻が低酸素脳症の治療を受けた総合病院に紹介状が書かれ,そこで2カ月後に手術を受けることになりました。
2011年3月11日
妻の手術は午前10時から。私たちは指定された通り9時に病院で受け付けをし,妻はそのまま処置室へ通されました。
普通の診察と同じ流れで,本当に簡単な手術なんだなと納得できました。
10時半には無事に終わったと告げられ,出血が落ち着いたら家に帰ってもいいですよと言われました。
12時,妻が「おなかがすいた」と言うので,帰宅することにしました。
次の検査の予約をして,コンビニでパンを買い,家に帰りました。
軽い昼食をとり,こたつに入って一休みしました。
私は,緊張がほぐれたためか,いつの間にか眠っていました。
「地震?」
妻の声で目が覚めました。
アパートの天井から下がった電灯がゆっくり,小さく揺れています。
いつまでたっても収まりません。それどころか,揺れは大きくなる一方です。
電灯が,天井にぶつかりそうな勢いで揺れています。
こたつに入った妻の真横ではテレビがグラグラと揺れています。
体が不自由なためにすぐには立てない妻を抱きかかえて,隣の部屋へ連れていきました。ここなら,倒れてくるものはありません。
倒れるものはありませんでしたが,アパートが倒れそうな勢いになりました。
私たちは2階建てアパートの1階に住んでいました。防犯のために,ベランダからは出入りできないようになっています。外に出られるのは,玄関だけです。
私は,玄関とは反対の,奥の部屋に妻を連れていってしまいました。揺れがさらに大きくなり,人を抱えて歩くことは難しくなりました。
このアパートが崩れたら・・・どうする?
今考えると間抜けな対応でした。思い出すだけで恥ずかしくなります。
私は,妻に布団をかぶせて,その上に自分が覆いかぶさったのでした。
日ごろの防災意識が低いと,こんなことになります。本当にアパートが倒壊していたら,私たちは二人ともこの世にはいなかったのではないかと思います。
大きな揺れが収まったので,すぐにテレビをつけました。
東京湾で,石油タンクが燃えている速報が。
「大変だ,関東大震災だ」
画面に見入っていると,恐ろしい余震が始まりました。
今度は外に出よう。
まだ寒い3月,妻を車に乗せて,倒れてくるものがないところを求めて走り出しました。
車のラジオをつけて,地震の情報を聞きます。
ところが,カーナビというのは高性能というかおせっかいというか,災害に合わせて,強制的にテレビニュースに切り替えてしまうのです。
そこで目に入ったのが,仙台で津波が車を流している生中継でした。
「なんだこれ?」
近くの駐車場に車を止めて見ていました。
生中継ですから,今では放送できないような場面まで見ました。
それからずっとニュースにくぎ付けになってわかったことは,容赦ない自然災害では,弱い人から死んでいくということでした。
妻は出血が止まらなくなり,4日間入院しました。
2011年5月3日
「おまえの体じゃあボランティアはできないから,かわりに東北でお金をつかってこよう」
と,妻を車に乗せて東北に向かいました。
東北道を北上し,喜多方でラーメンを食べてから仙台へ。
仙台の若林区に行ってみました。
畑に,電車が斜めに刺さっていました。
そこにあるはずのないものが,あちこちに転がっていました。
私たちは息をのみました。言葉が出てきません。
テレビや新聞ではわからない,想像を超えた大惨事が目の前にありました。
でも,もっと驚いたのは,そこで生活する人々の姿です。
電車が突き刺さった畑で,おじいさんが肥料をまいていました。
部活動の女の子たちが,ランニングをしていました。
みんな,ちゃんと生活をしていました。
考えてみれば当たり前なのですが,私はこんな人々の姿を想像していませんでした。
被災地の人たちは,弱々しく,泣きながら暮らしているようなイメージをもっていたのです。
でも,そんなことはなかった。
人間て強い。ここの人たちはみんな英雄だ。
勝手な想像をしていた自分が恥ずかしくなり,被災地で生きる人々の雄々しさに涙が出ました。
テレビや新聞だけでわかったような気分になっちゃダメなんだ。
そう思って,他の地域も見ることにしました。
そして,強い人たちにたくさん会えて,感激しました。
妻のガンを知った時には落ち込みましたが,いつまでも泣いていられないねと,妻と話しました。
あの日から,夏の旅行では,東北に行くことにしています。
少しでも,被災地で暮らす立派な人たちに貢献しようと思っています。
時には他の地方にも行きたいですけどね(^^)
終わり
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